yukarigoto

書きたいことを、書きたいように。

そうやって、生きていこう。

「これからどうやって生きていこう」

 だいすきなツアーが終わった。三ヶ月弱、ひたすらに追いかけたツアー、その最後の日に、ともだちと合言葉のように繰り返したのがこの言葉だった。

 なぜすきか、なぜそうまでして追いかけるのか。そう問われれば、「そこに音楽があるから」としかいえない。彼らはツアー中に変わる。歌い方が、演出の中の佇まいが、表現力すべてが。それをわかっているからこそ三ヶ月弱という時間を一緒に走りたい。どんなふうに変わるのか、一片たりとも見逃したくない、聴き逃したくない。次はどう変わるだろう、あのフレーズはどうなるだろう、そうやって楽しみを積み重ねて走ってきた。

 いつも背中に、カウントダウンを――終わる恐怖を感じながら。

 去年の同じ時期に去年のツアーが終わった。そのときの記憶を当時の鮮やかさそのままに抱えて一年、また、同じ場所に立っている。これから俗に言う「ロス」が始まるのだ。週末を迎えてもコンサートはない。全国にいるともだちにそこかしこの会場で会えることもなくなる。そんな実感はいまから、ゆるやかに、真綿で首を絞めるようにやってくるのだ。

 すきという気持ちは残酷だ。終わることを知っていて走り出すわたしたちは、死に向かって走り出しているのに似ているのかもしれなかった。

 ただ、

 一片たりとも忘れない。あのときの振り付け、あのときの表情、あの時の声、あのときのリズム、あのときの音、あのときの笑顔。すべてがわたしたちのからだの中に刻まれて、わたしたちはそれを抱えてここにいる。この気持ちを抱いて、また次へのカウントダウンをはじめる。そう思えば、みんなの笑顔が聴こえたような気がした。

――そうやって生きてきたじゃない?

「これからどうやって生きていこう」――愚問だった。

 うん、――そうやって、生きていこう。

 

 

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とくにどこにも出してない文章が見つかりました。懐かしくなったので備忘録として。

あの頃、毎日毎日仕事に追われながら、課題をこなしながら、ほとんど貫徹に近い状態で週末、足を運んだなあ。そう思ったらひたすらに懐かしかったです。
音楽で生きてきたわたしにとって、毎回のあの時間こそ「生きてる」証だったんだろうと思うし、あのとき走ったこと、あのとき泣いて過ごしたことは一生の宝です。

経験楽器による違い?耳のおはなし

 わたしの耳あまり良くないです。というのは謙遜でもなんでもなく、本気で言ってることです。
 おともだちには歌とか管楽器やってるひとがいますが、そちらの方がよほど正確。なぜそれが起きるのか、と考えたとき、それはわたしがピアノ科出身だからだろうと思えます。

 声も管楽器も基本的に単旋律です。和音というものが出せない。それをはっきり覚えたのは、小4の時にフルートのひとと組んで作曲をしたときでした。和音使えないんだ!メロディパートなのに!っていう衝撃。その後自分も中学ではブラスバンド部でホルンやったりしてました。そこでもピアノってほんとに特殊なんだなと思いました。

 先日、あるテレビ番組で歌を見たときに考えたのが、その違いでした。

 曲がアレンジされ、コーラスが入っていたのです。いつもとは違う曲の雰囲気に「いいなあ! すき!」と素直に思ったのち、どうにかして和声を解析しようとしたんだけど……挫折しました(苦笑)。

 ていうのも、わたしの耳だと「ひとつ」に聴こえるんですね。
 四声、じゃなくて、1和音、というのかな…これ説明難しいな…

「だれだれがどこそこのパートをここから入った」というものより、「ここのフレーズでは音の厚みがどう変わった」、という方でしか、あまり認識できない、ということかもしれません。

 ピアノ科は四声の聴音をかならず学びますが、そのときもわたしはソプラノアルトテノールバスの横で追うよりも、和声ひとつのカタチを捉える方がラクでした。ソプラノとアルトの開きがこう聴こえる、ならば開離だろう、そうではないから密集であろう、というふうに。
 そしてその細かくわからないアルトとテノールを聴き分けるときに、単音を探して横移動での音探しをするわけで。

 これはやはりピアノが「和音を出す」という特性を持つからではないかと思います。

 そういう意味では、わたしの耳はまったく、歌割り分析には向いてないんだよねえ、……ともだちと歌割り分析なんて何度もやっといていまさらいうのもなんなのですが(苦笑)。かぶせとか音の厚みとか音の方向性、倍音の有無とかピッチの狂いはわかるけど、個人個人のところまでは気が回らず、全体としてあの人がどうだった、くらいしかわからないのですよ…

 そういう意味では本当におともだちに恵まれているな、と思いますし、その差がとても面白いと考えてます。

 そういえば。
「相対音感」「絶対音感」「固定ド」「移動ド」、これらの違いわかるひとってどれほどいるのかしらとも、ふと思ったのでした…わりと人口に膾炙してる単語なのでしょうか?
 ちなみにわたしはおそらく生まれつきでは、移動ドの相対音感だと思われます。YAMAHAのグレード試験のときにその音が「根音」であることはわかるのにその音が「ドレミファソラシドのうちのどれか」がわからなかったということや、移調がすこぶる得意なこととかがあります。移調が得意って伴奏者としては良い素材ですね!(自分で言う) 移調ってつまり音をスライドさせるようなもので、同級生はこれがかなり苦手で個人差があるなあと感じてました。
 あとはやはりブラスバンドやってたときにこの移動ドがとても役に立ったなあ。ホルンてF管なのでピアノと完全4度差があるのですけど計算は早かったもんなー。

 そういう先天的なところに訓練で絶対音感を身につけたハイブリッドだと自覚してます。愛言葉歌うときも原キーじゃなくても違和感ナッシングです。
こういうところももしかしたら、その「音の捉え方」に影響してるのかもしれません。

 ということをつらつら語ってみました。人間っておもしろいね!

 ちなみにわたし、色調もあるっぽいです。さて次はこれかしら?

 

海に還る

 海がすきです。

 と言うと、なんだか夏の海、ビーチ!  みたいな感じがしますがそんなものではなく。

 わたしの地元は干潟のある内海に面してます。干潟なので、ビーチ、なんてものはなく、堤防によじ登ったり、座れるところでテトラポットに寄せる波を眺めてたり、そんなことをする人が自分だけじゃないんだなあ……と、潮が引けばあらわになる干潟、その上を跳ねるムツゴロウや、遠く島原の稜線に沈む夕陽を見ながら思う、それがわたしの「海」です。

 なにがすきなんでしょう。

 思い返せば、たぶんまずは、音。

 ただひたすら月の引力に寄せては返す波の音と、ときたま遠く、海苔の船のエンジンが響く、そういう音がすきなんだと思うのです。

 次は、たぶん、色。

 干潟の色、澄んでない海の色ーーこれを思うといつも、小6のころの遠足で堤防ぎわを歩いていたときに、クラスメイトの黄色い帽子が風にさらわれて海に落ちたのを憶い出しますーー、そして沈む夕焼けの色。そういう、移ろいゆく時間の色がすきなんだと思うのです。

 そして、風。

 当たり続けると少しずつ冷えて、潮の匂いが湿気といっしょくたにまとわりつくようで、それでいてどこかせつない匂いのする、その風がすきなんだと思うのです。

 海がすきです。
 正確には、地元の海を眺めているのが、すきです。

 川から流すお盆のお団子が流れるさまを今年は見れなかったことをふと思い出すと、替わりに海が呼んでる気がしました。